財団法人 大東会館

大嘗宮はなぜ萱葺きにすべきなのか

令和元年7月29日

大東会館機関紙『道の友』令和元年7月号に掲載の福永理事長の巻頭言を転載致します。

 

本年十一月十四、十五日に行はれる大嘗祭は、宮中祭祀の中で最も重要な一世一代、至上の大祀であり、千三百年以上連綿と続いて来た歴史伝統に違ふことなく無事斎行されますことを、日本国民は心から希んでゐる。しかし、そのやうな国民の衷情を全く無視した形で、宮内庁は大嘗宮の主要三殿を、従来の萱葺きから板葺きに変更するといふ信じ難い決定を下した。この「大嘗宮問題」は今月の『不二』誌巻頭でも触れてゐるが、歴史伝統を軽視し、大嘗祭の本義を損ひかねない変革を行はんとしてゐる宮内庁は、一体どのやうな料簡で、このやうな無分別な判断を下したのか。

宮内庁の言ひ分

前回、平成度は悠紀殿、主基殿、廻立殿を萱葺きとしてゐたが、今回、この主要三殿さへも萱葺きから板葺きに変更された。宮内庁長官を委員長とする大礼委員会の議事録からその理由を抄出してみると、
①材料調達の困難
②特殊な専門技術者の不足
③工期の困難
④コストの問題
といふことになる。
しかし、今月の『不二』誌巻頭でも述べたやうに、これは日本茅葺き文化協会代表理事の安藤邦廣氏(筑波大学名誉教授)の調査によつて、①~④の問題は殆ど解消されてをり、安藤氏はその旨を三月二十日、宮内庁長官宛てに送られた「要望書」の中で明記してゐるのだ。
安藤氏によれば、萱の材料と職人の手配も出来るし、工期内で屋根を葺き上げることも十分に可能といふことだ。また、コストの面でも、古来の葺き方である「逆葺き」の工法を用ゐることで、通常の「真葺き」より大幅な工期と費用の削減が可能であり、具体的には三五%の費用で出来るといふ。これらの事実を宮内庁は、安藤氏との面談により、二月下旬の段階で既に承知してゐたのであるが、何故、宮内庁はそれでも頑なに萱葺きを排除したのか。
安藤氏の提言を受けて宮内庁が示したのは、逆葺きの事例が少ないことによる安全面での懸念である。台風や大雨の恐れを抱かざるを得ないのはその通りであらう。
陛下の御身や祭儀の厳修に障りがあつてはならないとの宮内庁の思慮も理解出来るところであるが、台風や大雨の恐れは昔も当然あつた。乱世の空白はあつたものの、御歴代により、古制の基本に違ふことなく大嘗祭が厳修されて来た歴史、萱葺きでない大嘗宮が営まれたことは一度も無いといふ事実の重みを、宮内庁は一体どの程度捉へてゐたのか、甚だ疑問である。しかし、宮内庁も敢て伝統に違ふ決定は本意でない筈である。

コスト問題は解消されてゐる

昨年十一月三十日、五十三歳の御誕生日を迎へられた秋篠宮殿下(当時)は記者会見で、明年秋に斎行される大嘗祭につき「内廷会計で行ふべき」「身の丈に合つた儀式を」との認識をお示しになられた。更に宮内庁へ疑義を呈せられた際、「宮中の神嘉殿を活用して費用を抑へ、それを内廷費で賄へばよい」との代替案も示されたといふ。この発想は、故・高松宮殿下もお持ちであつたやうだ。これは皇嗣殿下お一人のお考へといふよりも、嘗て火葬・薄葬の御意思を示され、常に国民の負担軽減を旨として来られた上皇陛下のお気持ちを代弁されたものと拝察される。今回の宮内庁・大礼委員会の決定は、役人文化とされる「前例踏襲・形式主義・無謬性」などから大きく逸脱したものと言へるが、これを変じさせたものは、皇嗣殿下の御発言をはじめとする、宮中からの「大幅な経費削減の御意向」が大きかつたのではないか。そして、その背景にあるのは、前回、平成度に於ける反国体勢力からの執拗な大嘗祭攻撃の記憶が大きいのであらう。
しかし、陛下や上皇陛下から「萱より板葺きに―」などの具体的な案が提示されるとは考へ難い。やはり宮内庁の過剰な忖度、また大嘗祭に対する決定的な認識不足がもたらした余りにも拙い決定と断ずべきであらう。
では実際、今回の大嘗宮造営費はどこまでコスト削減されたのか。報道によれば、一般競争入札が宮内庁で行はれたのが五月十日、参加したのは清水、鹿島、大成建設、大林組の大手ゼネコン四社。予定価格は約十五億四千二百万円であつたが、これに対し、清水建設が約六割の九億五千七百万円で落札。前回平成度は約十四億五千万円であり、今回は前回より五億円もの節約を見たことになる。この時点で、費用の問題は全く解消されてをり、当初の計画を変更させ清水建設に追加発注し「板葺きから萱葺きへ戻す」ことも可能であつた筈だ。

〝板〟と〝萱〟の和合を

宮内庁が懸念する安全面、また工期・コスト問題の総てを解消させ、更に伝統をも護持し得る方策として提示したいのは「板葺きと萱葺きの和合」を図るといふことである。つまり、板敷きの上に茅葺きを施すといふことだ。伊勢神宮の萱葺きは凡そ二十年後を見据ゑねばならない。従来の萱葺きの工法ではどうしても支障が出る為、一部柔軟な措置を施してゐると言ふ。萱葺きの伝統を護持する為にあらゆる労苦を負ひつつも、それを当然のこととして粛々と着々と次期遷宮に向けて今も努力を積み重ねてをられるのだ。宮内庁も、大嘗宮は「板葺きか萱葺きか」といふ二者択一ではなく、どうすれば喪なく事なく伝統の護持をなし得るかといふ発想を常に持つべきだ。
大礼委員会の議事録の中で気になつたのは、板葺きに変更する理由として「板葺きとすることにより、自然素材を用ゐて短期間に建設するといふ大嘗宮の伝統は維持し得るものと考へてゐる」と述べてゐる部分である。どうも宮内庁としては、大嘗宮がなぜ萱葺きであるべきかといふ根本的な問ひ掛けを一切せずに、「自然素材だから良い」との安易な独自の解釈で、事を決してしまつた様だ。
千三百年を越える大嘗祭の七十六例(天武朝を第一回とし、北朝を加ふる)を数へる歴史の中、大嘗宮は「黒木(皮つきのままの丸木)で構へ・青草で葺く」とする古制を違へたことは一例として無い。その厳粛な事実を見れば、本来は事足りるのであるが、ここで「大嘗宮はなぜ萱葺きでなければならないのか」との問ひに附き考察してみたい。

大嘗宮の原型

大嘗祭は日継の御子が御即位の後、はじめて斎行される新嘗祭をいひ、「大新嘗祭」とも申すべきもので、天武・持統朝より開始されたとするのが凡その定説である。そして短期間で仮の神殿を造る大嘗祭のあり方は、古へから伝へ来たつた新嘗祭のかたちを踏襲したものと考へられる。
天武天皇の御代ではすでに大陸より新しい進んだ建築様式が次々と輸入され、持統朝に営まれた藤原京大極殿では寺院にしか使用されてゐなかつた瓦が用ゐられてゐる。
伊勢神宮の遷宮制度も、天武・持統朝より開始されたが、この当時にあつても、神宮の御鎮座は遠い昔のことであつた。数百年を経て伝承されて来た神宮の姿は、当時の人々にとつても、いにしへを偲び郷愁を誘ふ懐かしさがあつたのではないか。更に古い様式を伝へる大嘗宮の黒木・掘立て・青草逆葺きと言つた姿は、当時にして既に「上つ代のもの」と言つた他界観の如き感覚があつたらう。
はだすすき尾花逆葺き黒木もち造れる室は万代までに
この万葉歌(巻八・一六三七)は元正上皇の御製であるが、元正上皇、聖武天皇の行幸に際し、御座所として神殿に模した建物を臨時に建造しお迎へした長屋王の深甚な計らひを嘉し讃へ賜うたものである。ここにも、黒木・萱葺き(逆葺き)の様式を特別視、更には神聖視する感性が窺へる。
天武天皇は、この古代より伝承されて来た建築様式を重んじ厳守され、後の世に伝へられたのである。神宮の様式も大嘗宮の様式も、天武天皇の御代で造り出されたものでなく、先人の伝へて来られた姿そのままを後世に確と伝承せられたのであり、先づ茲に深く思ひを致すことが大切であらう。
大嘗宮の原型は新嘗祭の淵源に求められよう。現在、新嘗祭は常設の神嘉殿に於て斎行されるが、神嘉殿(中院・中和院)が平安初期頃に創建される以前は、大嘗祭と同様、仮殿を設け、往古のままのかたちで行はれてゐたと思はれる。新嘗祭の歴史は遠く遡ること古代、更には神代まで至る。『日本書紀』に於ける「新嘗」の初出は、神代巻の、
復見天照大神當新嘗時、則陰放屎於新宮
(復天照大神新嘗きこしめす時を見て、則ち陰に新宮に放屎る)
及び、
及至日神當新嘗之時、素戔嗚尊、則於新宮御席之下陰自送糞
(日神當に新嘗きこしめす時に及至りて、素戔嗚尊、則ち新宮の御席の下に、陰に自ら送糞る)
との件であるが、いづれも素戔嗚尊が天照大神との誓約に勝利し、勝ちさびに、神聖冒瀆の罪を犯されるその場が、まさに天照大神御自らが厳修される新嘗祭の新宮であり、茲に、大嘗宮の原型、淵源が求められるのである。新宮は「にひなへのみや」「にひなめのみや」と読ませるものが多いが、これを普通に「にひみや」と読んだ場合、「新嘗の為に新設された宮」といふ意味になり、当に大嘗宮の原点と見ることが出来よう。また、新宮を穢した素戔嗚尊の行為は最も忌むべき「罪」の一つとして『大祓詞』にも特に挙げられてをり、これは如何に新嘗の新宮が清浄の極みに位置する聖域であつたかを物語るものであらう。大嘗宮が飽くまでも清浄を保つべく新設される所以も、ここに淵源があるのではないか。
一条兼良公が『御代始抄』で「大嘗会は神代の風儀をうつす」と言はれた如く、大嘗祭に先人は「神代」を見たのであり、また、大嘗宮の造営は高天原を地上に現出する営みであつたと言へよう。ここまで思ひが至れば、先人が高天原の原風景を思ひ描きつつ伝へ来たつた大嘗宮の様式を、安易に変じようなどといふ考へには及ばない筈だ。
ここに至つて、宮内庁・大礼委員会の決定には重大な瑕疵の存することが分かつたはずである。工期を逆算しても、まだ萱葺きを施すだけの猶予はある。宮内庁の英断を切に願ふものである。